順光寺は、松江市の城下町の一角、石橋町に寺基をかまえる浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺です。
歴史の息吹を感じるロケーションにあり、松江城をはじめ、武家屋敷・明々庵などの史跡に、徒歩で行ける範囲にあります。
現在の住職は、第十七代。松江市内をはじめ、広い範囲にご門徒がおられます。
歴史と伝統を受け継ぎ、浄土真宗のお寺として、日々活動しています。

順光寺は、松江市の城下町の一角、石橋町に寺基をかまえる浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺です。
歴史の息吹を感じるロケーションにあり、松江城をはじめ、武家屋敷・明々庵などの史跡に、徒歩で行ける範囲にあります。
現在の住職は、第十七代。松江市内をはじめ、広い範囲にご門徒がおられます。
歴史と伝統を受け継ぎ、浄土真宗のお寺として、日々活動しています。
順光寺所蔵の「順光寺史」によると、順光寺は、もともとは、天台宗のお寺で、秋鹿郡大野村(現松江市上大野町)に作られたとされています。
その後、1576(天正4)年、川津村菅田(現松江市菅田町)に移転しました。浄土真宗に改宗したのは、このころです。
慶長年間、現在の石橋の地に移転しました。
松平直政公が大阪の陣に参戦した際、軍資金が必要になりました。
直政公は、当時領地をもらっていませんでした。そこで、直政公の家臣神谷源五郎(のち兵庫)の母である東局が西本願寺より、資金を調達しようとしました。
そして、大阪の陣に勝利の後は、直政公が西本願寺の門徒になることを約束しました。
西本願寺は、二千両という大金を捻出しました。
戦争は、いつの時代もお金のかかるものです。こうして、直政公は、軍資金調達に成功し、徳川方の武将として、大阪の陣に参戦しました。
ご存知の通り、大阪の陣は、徳川方の圧勝に終わりました。直政公は、西本願寺との約束を果たさなければなりません。
しかし、徳川氏は、浄土宗に帰依しており、その一族である松平氏も、当然、浄土宗です。そこで、その代わりに、自らが浄土真宗のお寺を作ることを約束しました。
寛永十五年、直政公は、出雲国を拝領しました。神谷源五郎らを伴って入国した際、石橋の地に、順光明寺という、寺基が整っていない浄土真宗のお寺があることがわかりました。そのお寺は、移転したばかりで、廃寺同然でした。
神谷源五郎は、自らが大檀那となり、多額の浄財を投じ、お寺を改築しました。これが現在の順光寺です。
ちなみに、順光寺という寺号は、この時に改められたものです。
神谷源五郎の母東局は、非常に信仰深い人でした。西本願寺からの軍資金を調達後、東局は、さっそく、息子の陣中で、宗祖親鸞聖人の報恩講を行いました。
その時に招待したのは、了誓という、大阪薩摩堀の広教寺に滞在していた僧侶でした。この了誓が順光寺第三代目の住職です。
さ て、大阪の陣では、伝説とも言える逸話が残っています。神谷源五郎は、冬の陣で、銃弾に当たりました。ところが、不思議なことに、なんともありません。命 中したところに手をやると懐に入れていた、阿弥陀如来像がありました。弾丸が如来像に当たったため、源五郎は、一命を取り留めたのです。
母東局は、この一件を機に、一層信仰を深めたといわれています。
《参考文献》
続・山陰の武将 山陰中央新報社
島根県大百科事典上巻 山陰中央新報社